岡一輻ひとりごと集『能登の七輪 燃えたり消えたり』刊行

2020/05/31

 岡一輻さんの「ひとりごと集」である『能登の七輪 燃えたり消えたり』を刊行した。鶫書房となってから三冊も本を出してくださっている。ありがとうございます。
 今回は随筆集であり、歌集ではない。私は前々から岡さんのような人生経験の豊富な方が随筆の類を書いたらどのようなものになるか、ということを考えていたのだが、それが実現して喜んでいる。
 詳しくは本文に当たっていただきたいが、現在の暮しの周囲にある人や自然や藝術に関すること、ふるさと能登への思い、家族とも思い出、人生への省察など、さまざまな素材に独特の眼差しを向けて綴った49篇の文章から成っている。
 私が特に感動した文章を抄出してみたい。

「どうしてだろうか、時間ばかりかかった旅のほうが、こころに深く刻まれている。経済的に余裕のなかったことがあるのかも知れないが、そんなことだけではないようだ。子供ができて長男も次男も長女とも、小学校に入る前の冬の時期、それぞれと金沢、能登までの、列車での父子二人旅をしたことがある。つまり三回の冬旅だ。(中略)速くもなく豪華でもない貧乏冬の旅だったのは間違いないのに、それを云い聞かせたりしてくれたことは、有り難いことだと思ったりしている。冬、雪、ゆっくり、安い、遅い、光、なんだか細い線をひいて、その上と下に近いところの要素ばかりの旅だ。人のこころには、そんなものが一番ピッタリなのかなと、思い出しては考えている。」(「刻まれ溶ける冬の旅」より)

「黒い瓦が艶々とひかり、蒼い海の風と、薄いみどりの空が印象深い景色の夢。ただ夢に思い浮かべた気色でも、どの夢景色でも、泳いでいる鯉幟は、みな色鮮やかで色付きもよいが、父鯉にあたるような一匹だけ色の付いてない白い鯉幟が、どの風景にも、いつも泳いでいる。逝くまでの時間が少ないのに、解決しない訳があって、父を知らずにきてしまった人生が、そんな風景の夢をみさせる。父とは何者なのか、そんなどうでもいいことを考えつづけている。」(「しろい鯉幟の泳ぎは」より)

「隣りの爺さんは砂浜での遊びで私が、端から端へ何回も全力で走っては戻ってくるのを、待っていてくれた。何かを話したりすることもなく、ただ黙ってじっと見ていてくれた。爺さんは、わたしが幼いころから父とは共に暮らしをしたことが無いことを知っていたから、言葉ではなく、いま振り返れば、黙って見ることで包み込んでくれていたような気がしている。浜辺では石を積み上げて、持ってきた、じゃが芋や葱を焼いて、食べさせてくれたこともあった。海だけしか見えるもののないところで、あがっていく白煙の下の少年と爺さんは、黒影のようなもののようだった。」(「蕎麦と少年と爺さん」より)

 私自身が子でもあり、一人の少年の親でもあるためか、このような文章は目頭が熱くなる。少年のころの岡さんが毎日のように見ていた能登の海辺の風景と心の中を想像する。その透明な寂しさが、不思議にかぎりなく美しく思われてくる。
 いまだ能登に行ったことはないのだが、息子がもう少し大きくなったら、岡さんの故郷を見に、二人で旅することができればよいなと思っている。