終戦の日

2021/08/15

 今日は「終戦の日」。戦没者を追悼し、平和を祈念する日。私個人は39回目の「終戦の日」で、日本国としては76年目となるそうだ(「敗戦の日」だという主張される方もいるが問題は名称問題以前にあると思う)。幼い頃は学校で戦争に関する宿題が出たり、その頃はまだ存命だった祖父母から戦争の話を聞いたりして、この日を迎えるのはなにかしらの感慨があったものだ。当時はテレビやラジオでもこの日は特別な番組編成がされていたように記憶しているし、世の中全体がまだまだこの日を大切にしていたような気がする。
 近年は、自分が齢を重ねて身辺のことに追われがちになったこともあるのか、あまりこの日を迎えても気持ちを新たにするということがない。ニュースなどでは風化の傾向が指摘されたりもするが、どことなく熱が入っていないし、ほんとうに風のように、何もなくこの日は過ぎてしまう。
 話は飛ぶが、ユダヤ教では、3月の末から4月の半ばころに、過越祭(ペサハ)という宗教的記念日がある。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民がモーゼに率いられてパレスチナに脱出した、いわゆる「出エジプト」を記念する日となっている。この日、ユダヤ教徒は「種入れぬパン(酵母を入れないパン)」を食べる。聖書の「出エジプト記」12章その他の「その夜、その肉を火で焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べねばならない」に基づくもので、これによって彼らは、先祖がエジプトで奴隷とされていた時の苦しみと、神による救出という原体験を、毎年毎年、身をもって確認し、子孫に伝えていくのである。
 日本でも「戦争体験を忘れるな」というが、われわれはただそれを言うだけだ。罪の意識もないし、民族の痛みなども、ほとんどないのである。昔のことよりも今目の前のことが大切なのである。それは言わないよりはいいだろうが、ユダヤ教徒は上のようなことを三千年も続けているのであって、それに比べれば、今のようなやり方の「終戦の日」というのが風化していくのも、当然のことだろうと思う。本気で伝えていくのならば、彼らのように、「終戦の日」には国民みなが芋の葉の入った粥でも啜るという方法しかないのではないか。オリンピックをめぐる醜態もそうだが、われわれは、つねに、幾世代にもわたって、近視眼的に、その場しのぎに、表面を糊塗するような生き方をしてきたのではないか。恐るべき歴史感覚の欠如だ。われわれとは今現在生きているわれわれのことでもあるが、今は亡き先祖たちもそうだ。そういうことの積み重ねが現在の日本なのだということ、嘆き難ずるより先に己が身を振り返るがよい。と、私は私に言っているのである。
 ところで、アメリカや中国をはじめとする多くの国では、第二次世界大戦は9月に入ってから終結したと認識されているらしい。日本政府が降伏文書に調印したのも9月2日である。それを一方的に、玉音放送でポツダム宣言受諾と日本の降伏を国民に公表した日をもって「終戦の日」と称しているところが、あまりにも日本的であって、可笑しいような、悲しいような気持ちになるのである。